相馬 芳枝 (国連世界化学年の女性化学賞受賞者)

1、夢の白衣~少女時代、さすらいの心~青春時代

Q、はじめに、先生の少女時代・青春時代についてお話しいただけませんか。

ご出身は関西と伺っていますが・・・?

  • 私は山口県生まれ、神戸大学理学部を卒業して公務員試験に合格し、大阪工業技術試験所(通産省の管轄、現在の産総研)に就職しました。1965年(昭和40年)春のことです。当時は合格するとリスト(名簿)が作成されて、国立の研究所から個別に採用の指名があるというやりかたでした。私は中学生の頃から「白衣」に憧れていたので、白衣を着て実験できる職業に決まって、うれしく誇らしく感じました。

Q、なぜ、白衣が夢だったのですか?

A、父の家は農家をしていました。私は幼い頃から牛の世話や畑仕事に親しんできました。自然や命に興味がありました。物心つくと、野口英世の伝記やシュバイツアー博士のアフリカの話の本を読んで、医者になりたいと(あるいは白衣の天使の看護師になろうと)思いました。

ところが大学受験で医学部に失敗、残念でした。一浪して理学部に進学したのですが、夢が叶わなかった落胆は大きく、入学してからも「迷える子羊」のような状態で、憂鬱な日々を送っていました。

Q、若い時代は、誰でも憂鬱なものです。心はどこか見知らぬ所へ、あてどなくさまよい、自分にも覚えがありますが、「青春とは」そのような迷える子羊の群れを呼ぶのかも知れません。

A、けれども大学二年目に、小林正光教授の化学実験教室に誘われました。はじめはビーカーを洗う作業や、実験に使う白い粉の重さを量るような易しい仕事しかできませんでしたが・・・この研究室は生き生きした活気に溢れていて、同級生7~8人で楽しい実験を重ねることになりました。

当時めずらしい産学協同のプロジェクトを小林教授は動かしていて、エネルギッシュな研究活動を進めておられました。

Q、そんな出会いがあったのですね。「迷える子羊」は、めでたく「研究者の卵」の道へ進むことになったのですね。さて、就職後の研究所(現在の産総研)では、何をなさったのでしょう?

2、化学者として自立をめざし、生涯の目標に出会う

A、当時は公害が日本を席巻する大問題でした。水俣病(チッソによる水銀汚染)、イタイイタイ病、大気汚染(光化学スモッグ、イオウ酸化物質の発生)、海への流出油による被害などが連日のニュースになっていました。大学も研究所もダイレクトに社会の動きを意識しました。

Q、1960年代、1970年代の公害は目を覆うようなことばかりでしたね。被害は深まるばかり、汚染地域は広がる一方でした。汚染地域の人々は寝たきりになったり、死亡したり、障害者になったり、いじめられて村八分にされたり、踏んだり蹴ったりの状況でした。悪い時代です。悲惨な報道写真が人々の心に何かを訴えていました。

高度成長の裏側にあるものが可視化され、顕在化された時代です。

A、まず私に与えられた研究は、「公害対策を研究する分析の仕事」です。公害原因の一つである「一酸化炭素(毒ガスの一種)を吸収、除去」する方法の開発です。分析方法について、より性能の高い「高性能な吸収溶液」を見つけ、開発せよ!というミッションでした。

研究レベルは、プロにとっては中程度の課題です。広く知られているように「一酸化炭素は、自動車の排気ガスにも含まれて」います。文献で調べた方法を追試して、さらに新しい現象を見つけていきます。やがて、予測もしなかった「新しい現象」が目の前に出現しました。運が良いとはこのことでしょうか。そして世界初の「銅カルボニル触媒」の発見につながりました。さらに発見された物質を利用して、「高温高圧でなければ」作成できなかった「三級カルボン酸」を「常温常圧で」「コストをかけずに合成できる方法」へとつなげました。これが生涯を代表する触媒の研究へと進んだのです。(『理科はこんなに面白い』東京図書出版、2014年参照)

これは産業界でも高級塗料の原料や石油化学の会社で利用できるというメリットがあります。すなわち、以前の方法とはケタ違いに「省エネ」で「簡便な」合成方法を開発できたのです。(「銅(I)銀カルボニル触媒によるカルボン酸の合成」『油化学』第30巻第5号参照)第1報から毎年積み重ねて第20報まで研究を進め、さらに30報、40報と発展させていきました。これらは、当初めざしていた公害防止の研究とは枝分かれした高い次元の研究成果となりました。

3、暗いトンネルでも独自の研究課題を続けて進む

Q、その間、研究費、研究に必要な費用は順調についたのでしょうか? 私の場合は競争が職場内部で生じると、上司に研究費を横取りされてまったく使えなかった年もありました。いわゆる「狩りの獲物(標的)」にされてしまったのです。女性の研究費は徒党を組んだ複数の男性にねらわれました。その年は泣く泣く外部の研究費に頼って凌ぎましたが・・・。

A、おっしゃるとおりです。当初の課題を達成し、新しい物質の開発に成功したものの、国立研究所の中では大型研究(ナショナル・プロジェクト)のメンバーにならなければ、職場内で評価されません。暗いトンネルの中にいるような状況が十年も続きました。でも、私は、この研究テーマに惚れ込んでいました。手放すことはありませんでした。百万円ばかりの研究費で実験を継続しました。研究所内では女性差別もひどく、実に苦しい時代を過ごしたものです。女性研究者は孤立しやすく、生き延びることさえ困難な場合もあります。

やむを得ず、途中で道を変えた人、職場そのものを辞めた人もいます。女性にとって厳しい世界です。そういう現実を経験した者として、女性研究者を育て、継続的に成果を出せる研究者を増やすためには、備えなければならない環境の整備があります。

4、猿橋賞を受賞、そしてノーベル・シンポジウムの講演

Q、大変な時代、忍耐の時代に、先生は猿橋賞を受賞されたのですね。

A、1986年、暗いトンネルにいた時代に、生涯のエポック・メイキングともいえる猿橋賞をいただきました。精神的に辛かった40代に、もっとも尊敬する科学者である方から評価されたことは涙がでるほど嬉しいことでした。勤務先での評価は変わりませんでしたが、自覚した(めざめた)研究者としての私は進むべき道(志)を確かめました。

Q、その後、海外で研究発表された業績が認められて、国連の世界化学年「女性化学賞」の受賞(2012年)へつながっていったのですね。

A、主な業績は二つです。「銅、銀カルボニル触媒の発見と第三級カルボン酸の常温常圧合成法の研究」および「地球の温室効果防止のための二酸化炭素再資源化の研究」です。長い間、チームで追いかけてきた努力が実りました。

Q、漏れ聞くところ、ノーベル賞授賞式にも参列されたことがあると伺いましたが・・・。

A、はい、ノーベル委員会から1991年に「二酸化炭素の削減」をテーマに、シンポジウムの講演をしてほしいという手紙がきました。当時、産総研ではすでに大型予算を動かしていたので、タイミングも良かったのです。優秀な部下の研究者もいて、国際共同研究も進めていました。ノーベル・シンポジウムで講演し、授賞式にも出席させていただき、誠に光栄でした。

その後は触媒の研究に立ち返り、部下たちは次々に新しい触媒を発見し発展させました。一連の業績に対して、工業技術院賞(1993年)、科学技術庁長官賞(2000年)、日本化学会学術賞(2002年)が授与されました。このように陽のあたる晩年を過ごした後、2002年に私は定年退職しました。

Q、20年にわたる苦しい中堅研究者の時代を経て、コツコツと実験を積み重ねてきた学問研究の地盤が、「リケジョ」(理科好きの少女のこと)の夢に翼を与えて才能を発揮させたことはすてきです。

A、定年後はアウトリーチ活動を行って「理科好き」の子どもを育て、「女子中高生のための関西科学塾」や「茨木市相馬芳枝科学賞」の創設、そして女性科学者の研究環境を良くするための各種の委員会活動を、一人のボランティアとして続けています。

Q、これからも少女のように、夢を追いかけつづけてください。本日はありがとうございました。

 

(2017年5月28日収録、インタビューは国枝たか子による)