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遠藤乾 六鹿茂夫 山内進 佐藤成基 脇坂紀行 徳安彰 J?rn Keck 羽場久美子 Jadviga Rodovic 福島亜紀子 上林千恵子 増田正人 宮島喬 Silviu Jora
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●07月16日(日)第04回研究会
●羽場久美子氏 「拡大EU下のナショナリズム―グローバル化と『民主化』の帰結―」 <報告要約> 羽場氏による報告は、1990年代以降のヨーロッパにみられるナショナリズムをグローバル化と「民主化」という二つの観点から考察したものである。2004年には25カ国へと拡大したEUとその周辺地域にとって、ナショナリズムの問題はその境界線の変動と関連した重要な課題の一つとして存在してきた。 ソ連の崩壊、冷戦体制の終焉、EUの拡大は、直接的にも間接的にも常にナショナリズムを提起してきたが、その形態は多様であり、1990年代以降のヨーロッパにおけるナショナリズムは大きく以下の類型化が可能である。?Liberal Nationalism :1990年代・中欧?Radical Nationalism: 1990年代後半・バルカン?Xenophobic Nationalism:2000年代・東西欧州 また、1990年代以降の世界的な趨勢の一つは「民主化」である。「民主化」、「グローバリゼーション」、「地域化・地域統合」といった世界的な動向と、参加民主主義/制度的民主主義を実践するヨーロッパという地域において表出した上述した三点のようなナショナリズムとの結節点を注意深く考察することが本報告の主旨である。 ?Liberal Nationalism:1990年代・中欧 冷戦終焉後におけるこの地域の「民主化」は、歴史的な周辺支配地域からの自由と解放という伝統を持つ中欧において、リベラル・ナショナリズムという独特の形態を生み出した。それは、1990年代前半における冷戦の終焉と体制転換による「ヨーロッパ回帰」と、1990年代後半のEUによる「加盟基準達成」の競争として、排外的でなく外国に友好的なナショナリズム(Return to Europe)を生み出した。しかし、EU加盟における加盟基準の達成の中での既加盟国の保護主義やダブルスタンダードの軋轢の結果、この地域にも、EU加盟後の総選挙で、国益保持やEU懐疑主義的な政権を誕生させている。 ?Radical Nationalism: 1990年代後半・バルカン 「民主化」とヨーロッパ化によって自国の利害調整が一定程度可能であった中欧に対し、バルカン、特に旧ユーゴスラヴィアの経緯は対照的である。マンによれば、この地域のナショナリズムは、典型的な 「民主化の暗部 」として描かれる。 「民主主義の未成熟 」ではなく、 「民主主義の適応の結果 」として、多数民族が少数者を 「浄化 」し殺戮していく行動は、ナチス・ドイツからスターリン、ユーゴスラヴィアまで共通の問題として起こっているとされる。同じ多民族国家である中欧では起こらず、なぜこの地域でラディカル・ナショナリズムが爆発し紛争が長期化したのか。その直接的要因として、a)西欧諸国による早期の分離独立承認b)武器の流入c)EU、NATO加盟展望による安定化インセンティヴの欠如などがあげられる。 ?Xenophobic Nationalism:2000年代・東西欧州 マーストリヒト条約以降のEUの深化と拡大が抱える問題として、超国家権限の拡大によりEUエリートと利益を享受すべき一般市民との間の乖離(民主主義の赤字、参加民主主義の欠如)が表出している。特に、移民問題、農業問題、財政問題、憲法条約問題をめぐる軋轢は、現在ヨーロッパの多くの国で排他的なゼノフォビック・ナショナリズムと容易に接合しがちである。特に国益をめぐる議論、農業補助金・財政問題などは、市民参加が逆に、利害対立者(予算拠出国と受給国、新加盟国)の間に利害をめぐるゼロサム・ゲームを表出し、「市民の声」の反映が、相互のゼノフォビアの対立として現れることとなる。 問題は、 「民主主義の未成熟 」でなく、拡大EU下の「民主化」と市民参加の過程で、ナショナリズムの問題がさまざまな負の形で表出していることである。グローバリゼーションとリージョナリゼーションという上位レベルの利害が、市民レベルに還元されないことによる、 「民主化 」の中でのナショナリズムの広がりは、21世紀の国際関係における世界的課題でもある。 <参加者の議論> 1. 「民主化」の促進がナショナリズムを生み出す直接的な要因、ないし社会学的な因果関係はあるのか。 社会主義体制の崩壊後の 「民主化 」過程で、議会制民主主義の導入と自由選挙の結果、ナショナリズム、ポピュリズムが広がった。中欧では、それは民主化・自由化・市場化という欧州回帰の流れの中で、リベラル・ナショナリズムとなったが、バルカンでは、多民族国家における民主主義手続きの導入は、多数者による少数者の抑圧という形で現れた。民主主義は、 「参加民主主義 」を促進することでポピュリズムに転化し、それが構成員内の利害がさまざまで対立する場合には、ラディカルなナショナリズムとして、多数者が、民主主義の根幹を侵食して 「浄化 」を始める可能性は常にあるとされる。 2. 旧東欧地域というと、ソ連の影響が非常に強かった地域である。この地域におけるナショナリズム勃興には、ソ連の崩壊という外的な要因が大きいのではないか。 確かにソ連・共産党のタガが外れたという分析は、当時も言われたし現在でも有効な説明である。しかし90年代に、旧ユーゴスラヴィアにおける紛争が「長期化」した要因はそれだけではない。一つにはドイツ統一により国境線の変更が可能になったことと、そうした国境の変更に対して周辺大国が早期に独立を承認したこと、第2に、冷戦の終焉によりスクラップを運命付けられた大国の武器がスクラップされずに紛争地域に流れ込んだこと、第3に、バルカンでは、中・東欧のようにEU、NATOへの加盟展望により紛争を回避するインセンティヴが欠如していたこと、があげられる。逆にバルトや中欧では、ソ連崩壊後、同じ多民族国家でありながら平和的に国家形成を行い、EU・NATOに加盟した。 3. ナショナリズムはヨーロッパに限らない現象であるが、この点に関してはどのような見解をもっているか。 20世紀末から21世紀初頭にかけてのナショナリズムの成長は、冷戦の終焉と中・東欧・ソ連邦の崩壊という事実が国際関係に及ぼしたインパクトが極めて大きい。その後、東西ドイツの統一と、中・東欧における国境線の変更、振興独立国家の政治的承認があり、それが、多民族国家の共存という社会主義的な連邦制から、多民族国家の分裂による国民国家形成という方向を促進した(西の統合、東の分裂:梶田)。またそれはナショナル・アイデンティティの再構築をも伴った。冷戦後のナショナル・アイデンティティの再構築と「民主化」との結節が、歴史的・地域的特性を孕んで、リベラル・ナショナリズム、ラディカル・ナショナリズム、ゼノフォビック・ナショナリズムの類型を生み出した。こうしたナショナリズムは、たとえばアジアやラテンアメリカなど、冷戦終焉後の他の地域においても表出した。 4. その他、現在の拡大EUが抱える課題として、国境外のハンガリー人の「地位法」、カリーニングラードをめぐる 「境界線 」の問題、ウクライナのナショナル・ヨーロッパ・アイデンティティの問題など、より個別の問題も報告された。さらに議論では、南チロルの地域自治とハンガリー人の地域自治の比較が指摘され、「地域」 「境界 」からの論点も展開された。 (事務局) ●Jadviga Rodovicz氏 歴史の見直し:戦争を考える「ポーランド、ドイツ、ウクライナの歴史教科書作り」Reconsideration of History; Rethinking of the War Making the Text of History between Poland, Germany and Ukraine? <報告要約> ロドヴィッチ・ポーランド公使により、ポーランドとドイツ、さらにはウクライナを含めた、歴史の見直しのプロセスについて講演がなされた。 歴史を見直し、和解し、そして新たな歴史教科書を作成していくことは、困難な作業である。とくに、暗い歴史を抱えるポーランドとドイツ、この両国が共同で歴史教科書を作成するという事業については、やはりアジア近隣諸国との信頼関係の構築に、依然として多くの問題を抱え続ける日本も学ぶべきところは多い。 ロドヴィッチ氏の講演の中心はポーランドであった。ポーランドは独ソ不可侵条約の締結により、ドイツ=ソ連間で国土を分断され、戦時中は、ナチスに蹂躙された。戦後、共産政権の樹立により、ソ連圏に組み込まれるが、国土の東側をソ連に割譲され、逆にドイツの東側(いわゆるオーデル=ナイセ線以東)の地域を国土の一部とした。1990年の「東欧革命」の後、「市場経済」と「民主主義」を受け入れ、ポーランドは、20世紀、文字通り、国境線の位置、さらには体制のあり方、そのすべてにおいて、多くの変動を受け入れた国となった。 このポーランドの東・西に位置するのが、ウクライナ(旧ソ連)とドイツである。とくに、ドイツとポーランドとの間では、1960年代から歴史の見直しのプロセスがはじまり、それは、ついには「共同歴史教科書」の作成にまで至った。 ロドヴィッチ氏によれば、1965年、翌年に迫った布教千年祭にあわせて、ポーランドのカトリック教会は、ドイツの教会へと、両国の関係改善をめぐる書簡を送付したとされる。さらに、西ドイツのブラント政権による東方政策(Ostpolitik)の推進により、西ドイツ・ポーランド間の「接近」が進展し、両国の歴史の見直しに向けた前提が形成された。1970年、両国のユネスコ委員会が、共同の歴史教科書作成へ向けた委員会を設立。激しい討議を重ねつつ、1976年、委員会は、26項目の修正案を「勧告」として発表し、ドイツ・ポーランド双方の教科書の改善が進められた。 しかし、ポーランド、ドイツ間の歴史の見直しは、冷戦の終焉とともに、さらに複雑な展開をむかえた。冷戦の終焉により、「被害」と「加害」のアンビヴァレントな側面が、改めて浮き彫りになったのである。ドイツは、「加害者」ではあったが、しかし同時に、オーデル=ナイセ線以東の地域から多数の「追放」された人々を抱え込む「被害者」でもあった。この「被害」と「加害」をどのように捉え直すべきか、ドイツとポーランドが抱え込む歴史問題は、まだ残されている。 さらにロドヴィッチ氏は、冷戦後のEUの東方拡大が、ヨーロッパ各国間の歴史の見直しをめぐる認識そのものに大きな影響を与える可能性があることを指摘している(例えば、ポーランドとウクライナ)。また講演では、ポーランド国民の対ドイツ、対ロシア感情に関する世論の動向、あるいはポーランド・カトリック教会の動向なども紹介された。 <参加者の議論> 1. ドイツ、ポーランド間の「被害」、「加害」の問題について、どのように克服するのか?ドイツで進む「追放に反対するセンターStiftung Zentrum gegen Vertreibungen」の動向については、どのように把握したら良いのか?(「追放に反対するセンター」は、2000年9月に発足した。その目的は、「追放」の実態を記録し、20世紀にヨーロッパで生じた他の「追放」にも注意を促すことにあった。) ロドヴィッチ:「追放」の問題は孤立した問題ではなく、第二次世界大戦(とその後)のすべての過程と連動しており、それらを総合的に見直す作業が必要である。 2. ポーランドとロシア(ソ連)との関係について。ロドヴィッチ氏は、興味深い世論調査(2006年)を示した。例えば、「ポーランド国民の59%が、ロシアに脅威を抱いている。」しかし他方で、「ポーランド国民の67%が、ロシアと友人になることが可能であると考えている。」この結果は、アンビヴァレントで興味深い。1980年代の終わりには「カチンの森」事件などをめぐる、ロシアとポーランドとの間の歴史の見直しが進んだが、その後、どのようになっているのか?ポーランドとドイツとの間で作成されたような教科書を、ポーランドとロシア(ソ連)との間で作ることは可能なのか? ロドヴィッチ:ウクライナやロシアとの関係は非常に複雑である。ドイツとの場合は、話し合いの積み重ねで、不信感を減らしていくことに成功した。しかしロシアとの関係では、まだ依然として不信感が多く、この過程(教科書作成など)は、非常に難しい。 3. イェドヴァブネ事件などの歴史の「暗い側面」について、ポーランド国内の取り組みはどのような状況にあるのか?情報公開には、体制側は勇気が必要である。またそれをめぐる国内の試みはどのように捉えるべきか?(イェドヴァブネ事件:1941年、ポーランド北東部のイェドヴァブネで、約1600人のユダヤ人が殺害された。従来、この大量虐殺は、ナチスの犯行と考えられてきた。しかし、近年、実際に虐殺を行ったのはポーランド住民だったという説が唱えられ、ポーランド国内では大論争となった。) ロドヴィッチ:ポーランド人の歴史学者グロス教授による『1941年夏のイェドヴァブネ』という報告書が、この問題に脚光を当てた。イェドヴァブネ事件については、さらに調査を進めることが重要であり、それを安易に結論づけることは早すぎる。しかし、これからは、国際社会からの要請だけではなく、国内からの情報発信の必要性もあり、ポーランド国内の取り組みとしては、そのような姿勢が重要なのではないか。 (事務局) |
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