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 ・2005年度の活動

●第06回(2006年11月26日)

山内進氏

「ヨーロッパの拡大と正戦論―グロティウスの私戦論」

<報告要約>

 山内氏による本報告は、グロティウスの私戦論を通して、ヨーロッパの拡大と正戦の概念を検討するものである。

 なお、本報告における“拡大”とはEUの地理的な拡大としての“enlargement”ではなく、概念的な意味での“ヨーロッパ”の拡大であり“expansion”というような意味合いで使用されている。

近代国際法の父と呼ばれるグロティウスであるが、主権国家を主軸としていないという意味において、グロティウス主義は近代的ではなく、逆説的にはポスト近代的ないし中世的な性格を有しているといえる。このような示唆は、次の二点を意図している。一点目に、EUのような(一義的には主権国家ではない)構成体を再検討すること。二点目に、そのヨーロッパの拡大を、グロティウス的な観点から理論的に再検討することである。

 本報告において強調されたのは諸国民の法、国家法、家の法である。山内氏によれば、諸国民の法(=国際法)、国家法、家の法(=家父の主権)における関係性は、垂直的なものではなく、各々のレヴェルにおいて自らの権力を持った人々が構成する共同体の平和・秩序を個別的に維持・追及するものであると理解することができる。

 つまり、グロティウスの法体系の中に国家よりも、上位、下位のレヴェルの法秩序を見出すことができるのである。よって、EUという構成体をグロティウス的な観点から再検討することが本報告の中心的な課題の一つであるといえる。

 一方で二点目の、ヨーロッパの拡大と正戦論に関しては、『捕獲法論』を中心に検討がなされた。『捕獲法論』における“戦争”、特に“私戦”という概念のヨーロッパ世界の中での位置づけと、非ヨーロッパ世界への適応がもう一つの中心的な報告であった。

『捕獲法論』では、自然法との関係性を軸に私戦権が展開され、非ヨーロッパ世界や異教徒に対する支配の正当性が論じられている。つまり、法が確立されていない領域における支配として、海洋の自由、東インド会社の正当化のための論理が展開されているのである。

 以上のような観点から、中世的な法概念を再検討することで、今日におけるEUないしヨーロッパ拡大への歴史的な射程を含む考察がなされた。

<参加者の議論>

1. グロティウスの論理は、ヨーロッパ拡大の論理となるのかという点に関して議論がなされた。この点に関しては、グロティウスの論理が直接的にヨーロッパ拡大の論理となっているわけではないことが確認された。その上で、グロティウスを媒介として、ヨーロッパの拡大を再検討することが本報告の主旨であることが強調された。

2. 自然法と裁判権に関する質問と議論がなされた。この点に関しては、国連の重要性が指摘されるとともに、「正戦」の論理よりも、国際法に則り国家の枠組みを越える発想の根元にグロティウスを位置づけることができるのではないかとの回答がなされた。

  また、自然状態において裁判権が機能しないような状況での介入する権利に関しての議論が展開された。具体的には、コソヴォの問題が提示された。コソヴォの問題に関しては、その介入への是非に関して見解が分かれるとともに、個別的な行動様式を理解することも重要であるとの指摘もされた。つまり、ヨーロッパとアメリカといった抽象的な区分だけではなく、アングロ・サクソンであるアメリカ/イギリスと大陸のヨーロッパといった理解、政府/国民/住民や、時期による判断というのも十分に検討されねばならない点である。

3. 正戦論と植民地支配、ポスト・コロニアルな問題に関する議論がなされた。特に、16,7世紀まではキリスト教の影響が大きかったのに対し、17,8世紀以降の植民地主義・帝国主義における正当性は文明論に従うところが大きかったことが確認された。この文明論と自然法との緊密なつながりのもとヨーロッパの非ヨーロッパ世界に対する支配が、論理的に正当化されていたことが指摘された。

  現代のポスト・コロニアルな問題やイラク戦争などに関しても、このような観点からの検討が可能である。しかしながら、正当性ないし文明論と武力行使の正当性に関して、直接的に結びつけて理解することは誤りである。グロティウス的な正戦の概念は、一定の論理性に則っており、武力はやみくもに行使されるものではない。ヨーロッパにおいては、論理と論議の反復が重要な意味を持っていることも理解すべきである。

佐藤成基

「国境を越える『民族』−歴史的文脈から見たドイツ東方移民(アウスジードラー)問題−」

<報告要約>

 佐藤氏からは、戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ、現ドイツ)に特有の問題であった「アウスジードラーAussiedler」の問題について、とくに次の三点をポイントとした報告がなされた。(1)「アウスジードラー」の問題を、戦後のドイツ史の文脈だけに閉じ込めて議論するのではなく、1871年のドイツ建国の時期にまで遡って問題を整理すること。(2)「移民問題」としてのみ、この問題を議論するのではなく、「民族問題」として新たな枠組みを提起すること。すなわち、「アウスジードラー」は、1960年代からドイツに来る外国人労働者や、1980年代末の庇護権請求者の問題とは、歴史的文脈が異なり、したがって、「移民問題」の枠組みだけで把握すると、「アウスジードラー」問題は歴史的文脈から切り取られてしまう。(3)ドイツ統一以後の「アウスジードラー」をめぐる法的地位の変化が、はたしてドイツを西欧型の「ネーション・ステート」へと導いていくのか、今後の展望を示すこと。

 ナチス・ドイツの敗北の後、ドイツは東方領土を失い、それらの地域からは、大量のドイツ人が強制移住(「追放Vertreibung」)させられた。追放されたドイツ人は、一般に、「被追放者Vertriebene」と呼ばれる。ドイツ連邦共和国は、これらの「被追放者」を、国内に受け入れるための法的整備を迫られた。1953年、連邦被追放者法が制定され、そこで、「移住者Umsiedler」などと並んで、「アウスジードラー」の概念が確定された。すなわち、事実上、追放が終わった1950年以後に、被追放者が追放された領土から移住してくる人々が、「アウスジードラー」である。この後、ドイツ連邦共和国は、東欧からの400万人以上の「ドイツ人」に、「アウスジードラー」として国籍を与えることとなる。

 ところで、「アウスジードラー」は、一方で「移民」であり、他方で「在外同胞」(国家の外部にいるナショナルな同胞)であった。ここから、佐藤氏は、報告のなかで、帝政ドイツ時代、ヴァイマル時代、ナチス時代に遡り、ドイツにおける「国家」と「ネーション」の不一致の諸相についても、在外ドイツ人問題との関連から、概論した。

 さて、「アウスジードラー」をめぐる問題は、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の反共政策、東方政策などの対外政策の影響を受けながら、一方で、幾重にも意味転換を起こし、他方で、継続され、東欧からの「ドイツ人」を受け入れ続けてきた。しかしその図式は、社会主義圏の崩壊と、ドイツの統一により大きく変化する。「アウスジードラー」問題の前提であった、東欧での「追放圧力Vertreibungsdruck」という議論が、効力を失ったのである。

 連邦被追放者法の改正作業がはじまり、野党と与党の妥協により、「戦争の帰結清算法Kriegsfolgenbereinigungsgesetz」が、1992年11月、可決された。この法律により、長期的に、「アウスジードラー」という地位に終止符が打たれることになった。

 「アウスジードラー」問題の終止符により、ドイツは、在外同胞問題のない、西欧型の「完結したネーション・ステート」へと変貌したのか?・・・この問いに対して、佐藤氏は、民族マイノリティとしての在外ドイツ人問題の存在を指摘し、回答を留保する。

 ドイツ政府は、「アウスジードラー」の認定を厳しくしていく措置と並行して、在外ドイツ人マイノリティへの援助活動に力を入れているのである。確かに、「アウスジードラー」は終結に向かっている。しかし、在外ドイツ人マイノリティ問題や、被追放者の「故郷」の問題として、国境を越えた民族としてのドイツの「ネーション」は、まだ終結していないと佐藤氏は論じる。

 そして佐藤氏は最後に次のように結論づけている。「アウスジードラー」問題を「移民問題」としてだけでなく、「民族問題」として理解することで、「アウスジードラー」の終結は、問題の消滅ではなく、変容に過ぎないことが分かる。国境を越えたドイツの「ネーション」の問題が、周辺諸国・諸民族との対立に向かうのか、あるいはヨーロッパ諸民族の「架け橋」になるのか、今後の展開を見ていかなければならない。

<参加者の議論>

1.被追放者の問題については、東と西では見方が違う。東では、ドイツのexpansionと大量殺害の結果ではないか、ということで認識される場合が多い。そして追放される地域にとっては、はたしてドイツ人はマイノリティなのか、という認識がある。現在、ロシア人が同じような状況にある地域がある。旧ソ連時代のロシア人が現在のバルトに残っていて、そこでは、ロシア人マイノリティをどうするか、という問題に直面している。

2.ドイツ連邦共和国(BRD)で、被追放者を国内に法的に受け入れるための法整備の問題が議論されたが、ドイツ民主共和国(DDR)の法整備の問題はどうであったのか?

(回答)DDRでは、70年代半ばに、独自の国籍法が作られた。それまでは、自分達が唯一のドイツ人であるとして、国籍法には手をつけなかった。独自の国籍法により、DDRの方では、DDR国民となる者が法的に存在していた。しかしBRDの方では、そのDDRの国籍法を認めなかったと思われる。したがって、統一時に、BRDがDDRを受け入れるときに、国籍法の問題は生じなかった。1913年の国籍法をもって、問題なしとされた。

3.アウスジードラーの終止によってドイツが「西欧」型の「完結したネーション・ステート」になったとは必ずしも言えないと議論されたが、ドイツで制定された新しい国籍法の問題とは、この問題はどのように接合、あるいは接合しないのか?

(回答)1999年の新しい国籍法は、確かに、一方で、「西欧」型の国民国家への方向を示している。しかし他方で、ドイツには、「西欧」型との比較において、在外ドイツ人問題という例外の側面もある。「戦争の帰結清算法」までは、戦前のドイツ国籍をもっている人を無条件に受け入れてきた。同法により、無条件に受け入れることは、廃止された。国籍の問題はBRD内に限定された。したがって、在外マイノリティ問題は国籍法の改正とは切れた問題としてある。

4.「アウスジードラー」の問題として、残された財産権の問題があり、それが今日において争点となっているのでは?

(回答)財産権の問題が、被追放者の間でどれだけ広がっているのかは疑問がある。法律上の問題が残っており、また、財産権要求を被追放者がみんなやっているわけではない。物質的な面を問題にすることよりも、記憶の面を重要視する方が多く、財産権要求もシンボリックな面で議論されているのではないだろうか?

5.移民と「アウスジードラー」を分けて考えた方が良い、そのような見方があるということを提起することの重要性。イタリア系の人々が分布している、それをイタリアが回収しようとするイレデンティズムとの比較の視点について、議論がなされた。


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